9. <企>の独善的酒論

 

お断りしておくが、このコーナーはタイトル通りの「独善的酒論」なので、皆様がこれを読んでご気分を害されたところで、私は知らない。

 

私は「生酒(なまざけ)」が嫌いである。うるさいからだ。
「生原酒(なまげんしゅ)」となると、もうこれは見なかったことにしている。
なぜあんな、耳元でガーガー大声で喚かれているようなものを、大切な肝臓を痛めてまで呑まねばならないのだ。(秋田の「雪の芽舎」生原酒は唯一の例外である)更にその上に「発泡感」が加わると、ジャンケンで負けて「ラムネ」を1リットル一気飲みさせられる方が、まだマシである。この「発泡感」は、静かな音楽を聴いている横で、せんべいをバリバリ食われているようなものである。
さて、近年わが国の酒は、酒史上最強のレベルに達しているのではなかろうか。「日本の伝統」といわれているもののなかで、唯一そのレベルが上がっているものであり、常々私は「日本文化最後の砦」と呼んでいる。念のため、ここで言う「酒」とはわが国の酒で、米を醸造したもののことである。「日本酒」という卑屈な呼び名はやめてもらいたい。「酒」といえば他の何物でもない。「ウィスキー」はウィスキー、「ワイン」はワイン、「焼酎」は焼酎、「酒」は酒なのだ。

 

酒の良さの中でも特筆すべきは、各要素の繊細さである。佳酒はそれらが驚くべきバランスで保たれる。それらは、決して大声ではない静かな落ち着きをもつ。「生原酒・発泡アリ」は、それらを片っ端からぶち壊す。なにが「フレッシュでフルーティー」だ。ならばフルーツを食え!なにが「白ワインのような」だ。ならば白ワインを呑め!・・・いや、失礼した。
次に、私は酒を呑むより先には決して料理を口にしない。なぜならば酒がまずくなるからである。酒に合う料理、料理に合う酒などと言うが、何の事はない「合う」場合は、双方の欠点が相殺された結果、バランスが取れただけのことである。「引き立つ」というのは錯覚である。

また、「何か食べておかぬとカラダに悪い」と言う者は、そうまでして無理に酒を呑むことはない。私見であるが、食べてから呑む方がカラダに悪い。幼少のころから鍛えておかぬから弱くなるのである。

 

このように、佳い酒は非常に繊細な要素と優れたバランスを保持する「日本文化最後の砦」であるので、火入れ(通常2回、1回も可)した酒を焦らず瓶詰めしたもの(早過ぎると火入れでも発泡する。最近は意図的にこれをやる奴らがいる)を、食事の前に呑み、料理に手を付けた段階で、呑むのを終了させる、ということである。