【閲覧上のご注意!】※閲覧前に必ずお読みください。
このコーナー「やきものの常識は疑え!」は、やきものギャラリーおよび美術館の企画、または関連書籍や陶芸作家の言動や作品、あるいは、現代社会において楽しく充実した生活を送るすべを心得ておられ、現在この国は民主主義であると何の疑念も抱かずに受容されている方にとって、必要なことは何一つ書かれていません。閲覧により不快感、吐き気、嘔吐、食欲不振、めまい、ご家族への八つ当たり等の症状があらわれた場合、ただちに閲覧を中止し、当方ではなく医師・薬剤師・唎き酒師・祈禱師などにご相談下さい。乳幼児、小児にこれを読んで聞かせる場合はご家庭の教育方針への抵触にご注意下さい。また、本稿を閲覧しながらの自動車及び機械類の運転操作はしない下さい。

14. 間違った観かたとは

 

「間違い」という言葉を使うにあたって必要な提示があります。

それは、その基準を示すこと、「設定基準の明示」です。

 

正誤や善悪は、もとより宇宙に天然に存在するものではありません。

人間の都合により何かしらの基準が発生したとき、ある者にとっての正(または善)は別の者にとっての誤(または悪)であるという、放っておくと永遠に相対的なものです。

そこで国家や組織を支配する者が各々の都合に応じて制定させたルール(法)というもので強制し、それに従わぬ者を権力や武力などを行使して排除するというのが、今も昔も変わらぬこの世の習わしです。もちろん「民主主義」という表面的または偽名で呼ばれているわが国を含む現代社会も、例外なくそのようになっています。

このまま、前置きが延々と続きそうになってきたので本題に入ります。

これから述べる「間違った観かた」には、「より多くの正確な情報を得るために」という前提基準を付けます。

 

「間違った観かた」とは、いったいどのような観かたなのでしょうか。

 

まず、最も代表的でありその数も多いのが、”好き嫌い”を”良い悪い”と混同していて更にはそのことに無自覚である、という事例です。「好き」なものは「良い」、「嫌い」であれば「良くない」という具合です。

この方法で対象物から正確な情報を得ることは、まず出来ません。なぜならば、そこに幼児的な都合が多く混入した自身の既存の基準に反応し、それを正当化し続け、実際にはその対象物をほとんど見ていないからです。

ここでの最大の問題点は、本人がそのことに気付かず、条件反射的にこれを繰り返すというところにあります。

こういった者達に選挙権を与えていることが、先述のニセ民主主義の原因となり、国やその品位を低下させます。ヘタをすればこれが戦争を引き起こす原因ともなります。

 

再び本題に戻ります。

 

次にあげるのは、自らが体感しその眼で確認していない情報を鵜呑みにしてそれに影響される、という事例です。

噂話やマスメディアに右往左往一喜一憂する者達のことです。

自分自身が出くわした「情報」には、判断を必要とします。

それが即ち自らの今後に影響を及ぼします。鵜呑みにしている場合ではないし、右往左往していて良い結果には成りません。

「世間をお騒がせして誠に申し訳ございません」とやっているのはよく見る光景ですが、これは勝手に騒ぐバカな世間が悪いだけのことです。騒がねばならないのは内部の関係者だけです。外野の無関係の者に謝ってもらう必要は全くありません。

無責任な「国民感情」が国を滅ぼすのです。

美術館で「国宝」という言葉に反応したり、まず始めにキャプションを見ようとする者や、「音声ガイド原人」にも選挙権を与えてはいけません。

 

次には「観かた」以前の話となりますが、観るという能力に障害を持つ者とはどのような者のことなのでしょうか。

視力の話をしているのではありません。

 

これは、知識が多いということが「知っている」ということだと、本気でそう思っている者のことです。

「知っている」ということは「知らない」ということを知ることです。それが多いほど、より多くを知っているということです。

 

知識は単なる道具です。「知」に辿り着くためのひとつの手段か、知の残骸かのどちらかにすぎません。不注意によりこれは先入観となり、先入観はすべての正しい情報収集や判断の障害となります。

 

では「正しい観かた」とは如何なる観かたなのでしょうか。

 

「間違った観かた」は実はそう多くはありません。ここであげたような数例を除く、残りすべてが正しい観かたといっても良いのです。

つまり、一般論や概念や類型などの属性、また好き嫌いを良し悪しと混同させたりステレオタイプな発想(「良い」でなければ「悪い」などという発想体系のことです)を廃除し、噂話などに心を動かさず、必ず自らの眼を使って観て判断し、さらにその上で、「自分は今まで多くを観てきた」などとは夢にも思わない、というのがその一例です。

 

それは簡単なようで実は難しい、などと言っていてはいけません。

その気になりさえすれば、これらは実に簡単なことなのです。