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このコーナー「やきものの常識は疑え!」はやきものギャラリーおよび美術館の企画、または関連書籍や陶芸作家の言動や作品、あるいは、現代社会において楽しく充実した生活を送るすべを心得ておられ、現在この国は民主主義であると何の疑念も抱かずに受容されている方にとって、必要なことは何一つ書かれていません。閲覧により不快感、吐き気、嘔吐、食欲不振、めまい、ご家族への八つ当たり等の症状があらわれた場合、ただちに閲覧を中止し、当方ではなく医師・薬剤師・唎き酒師・祈禱師などにご相談下さい。乳幼児、小児にこれを読んで聞かせる場合はご家庭の教育方針への抵触にご注意下さい。また、本稿を閲覧しながらの自動車及び機械類の運転操作はしない下さい。

18. 連帯独自

 

「たんなる写しにとどまらず」という下りは、やきもの関連の論評に頻出します。

 

「たんなる写し」とはどういう写しなのか、そもそも写しとは何を写すものなのか、そこに「独自のもの」が加えられた結果、見るも無惨な出来損ないになったとしても(通常そうなっている)「独自」なのだからその方が良いのか、「独自」の正体は何か、またそれにどういった価値があるのか。

 

そういうことは書かれていません。

 

では、「姿形ではなく先人の心を写すことだ」といえば一見もっともらしくはあるのですが、それこそ「たんなる人まね」であろうがと思います。

 

ものの良し悪しに独自も写しもありません。

 

あるとすれば商標や特許などの法的な問題だけです。それ以外はまったくどちらでもよいのですが、あえて言えば「たんなる独自」というものが怠慢の最たるものでしょう。放っておけばそのままで、各自が独自なのです。オリジナルならば簡単なことです。

 

それにしても、個性だオリジナリティーだというものに強迫神経症的に執着する彼の者達は「幼少期の呪い」でも抱えているのでしょうか。

 

「出る杭は打たれる」ということばがありますが、これに対する解釈が分岐点になのでしょうか。「出る杭にこそなれ。打たれても平然と進むか、あるいは戦え」と現代のこの国の学校や家庭での教育で叩き込まれることは稀です。そのかわりに、実に安直な横並び教育が陰湿な問題の原動力となっています。

結果として、没個性こそ安全安心という風潮が深層に根付き、「差し障る」ことを不当に回避する者ほど個性や独自性を口にする傾向にあるようです。

結局そうやって遠回しに抑圧され続けた「独自性」の亡霊と化した劣等感やコンプレックスが、強迫的な独自性への憧憬となっているのかもしれません。

しかし残念ながら、それを「バネ」にするにはあまりに低品質で熱処理も適切でない「バネ」なのが、「劣等感の現代性」でもあるようです。

 

話を冒頭へ戻します。ものを見るときは「写し」「独自」などの、見る者の予備知識でしかない属性で見ない方がいいということです。見る側が知らなければ「これまでになかった新しいもの」、違いがわからなければ「たんなる写し」であるだけのことです。

 

良いものであるかそれ以外のものであるか、それが全てです。その基準こそが、本来「独自のもの」でなくてはならないものです。

 

独自性のない結論となりました。